2019年07月30日

対策拠点は原発事故発生を今後も想定せず

福島県大熊町の旧オフサイトセンターは原発事故対策の「前線基地」とされていましたが、その実態は放射線対策について全く無能であったことが事故発生により明らかとなりました。朝日新聞によると『震災による停電や通信回線の不通で情報の収集も発信もできなかった。気密性も不十分で、原発の相次ぐ爆発で室内の放射線量は毎時200マイクロシーベルトと、避難指示を出す基準の50倍超になった。事故からわずか4日後の同月15日午前に避難を始め、その日のうちに全員が撤収した』としています。
現実に『事故の2年前。総務省は全国のオフサイトセンターを行政監察し、大熊町などのセンターについて、換気設備に放射性物質を遮る高性能フィルターがなく、出入り口に気密性がないと指摘。経産省に対策を取るように勧告していたが、対応はされなかった』ということですから、そもそも実用性を想定していなかっと言えます。
失敗に学ぶことなく悲劇をくり返すパターンの典型といえます。記事では『東電が津波対策をしなかったのと同じように、政府はセンターの対策を怠った。その責任や、患者を置き去りに撤収した事実は、10年もたたずにかすれ始めている』と指摘しています。

原発事故の対策拠点、解体へ 「教訓が消える」と懸念も
朝日新聞 2019年7月29日
 東京電力福島第一原発事故で「前線基地」になるはずだった福島県大熊町の旧オフサイトセンターが、解体されることになった。8月にも作業が始まる。事故直後、役割を全く果たせず事故への備えをないがしろにしていた象徴の建物が、今年度内に姿を消す。事故の教訓をきちんと伝えていけるかが今後、問われる。

 6月25日、旧センターの内部を取材した。被曝(ひばく)して戻った職員を除染するシャワールームや非常口などを見る。外に通じるドアは、雑居ビルの裏口にあるような普通のドアだ。「こんなスカスカでは放射性物質どころか何でも入ってきますよね」。案内してくれた県職員に尋ねると、「それはコメントできません」とうつむいた。
この建物は鉄筋コンクリート2階建てで、第一原発の南西5キロにある。2011年3月の原発事故では国が現地対策本部を設置。経済産業省や文部科学省、自衛隊、県庁、東電などから計150人が集まった。

 だが、震災による停電や通信回線の不通で情報の収集も発信もできなかった。気密性も不十分で、原発の相次ぐ爆発で室内の放射線量は毎時200マイクロシーベルトと、避難指示を出す基準の50倍超になった。事故からわずか4日後の同月15日午前に避難を始め、その日のうちに全員が撤収した。

 その時、約1キロ離れた双葉病院には90人ほどの患者が避難できず取り残されていた。現地本部は患者の搬送を自衛隊に任せ、救出が遅れて病院内や移動中のバス、避難先の体育館などで約50人が死亡した。

 事故の2年前。総務省は全国のオフサイトセンターを行政監察し、大熊町などのセンターについて、換気設備に放射性物質を遮る高性能フィルターがなく、出入り口に気密性がないと指摘。経産省に対策を取るように勧告していたが、対応はされなかった。

 町内は事故で放射線量が上がり、国はほぼ全域を「帰還困難区域」に指定した。町の中心部だけは「特定復興再生拠点」とし、除染などを進めて22年春に避難指示を解除する。センターはこの拠点内にあり、町は周辺を住宅地にするため、建物を所有する県と管理する国に解体を求めていた。

 環境省福島地方環境事務所は、旧オフサイトセンターを年度内に解体して更地にする方針だ。事故の状況などが書かれたホワイトボードなど保存価値のあるものは、現在建設中の展示施設に移すとしている。町によると、「震災遺構」として残すかどうか地域住民らが検討する場はなかった。

 オフサイトセンターはそもそも、1999年の茨城県東海村のJCO工場で起きた臨界事故の後、全国に整備された。東大大学院総合防災情報研究センターの関谷直也・准教授は「町の復興の必要性は分かるが、センターはJCO事故を経ても原子力事故の想定が甘かったことを伝える象徴だった。解体は教訓を消そうとするように見え、今後の原子力防災を考える上でよくない」と懸念する。(編集委員・大月規義)

放射能の備え、まるでない構造
 東京電力福島第一原発事故で政府が「大失態」を演じた旧オフサイトセンター(福島県大熊町)が、解体されて無くなる。その作業を控えた建物の内部を取材すると、放射能への備えがまるでないずさんな構造が改めて見えてきた。

 取材した6月25日の玄関前の放射線量は、毎時2マイクロシーベルト。原発が爆発したときは、この1千倍だった。今回は防護服は必要なかった。内部に入るのは、事故から1年後の2012年3月に報道陣に公開された時以来、7年ぶりだ。

 その時、強烈に印象に残ったホワイトボードは見当たらなかった。3号機の爆発時間や、「3/13 10:50 双葉病院 残48人」と、実際に双葉病院にいた約90人の患者の半分以下しか把握していなかったことが記されていた。

 今回、県原子力安全対策課の米良淳一主幹が内部を案内し、「保存価値があるものは保存のため移設しています。ペットボトルやゴミも片付けています」と説明した。それでもノートパソコンやコピー機は数十台、原発の保安規定などの資料はそのままだった。

 「平成23年2月28日 当社原子力発電所における……(中略)……再発防止策について」。長いタイトルの資料が机にあった。機器の検査漏れを指摘され、事故の10日前に、東電が経済産業省の原子力安全・保安院に提出した報告書だった。02年に原発のトラブル隠しが発覚してからも、東電は問題を繰り返していた。その体質を国が変える気があったのか、改めて疑った。

 雑居ビル並みの窓やドアは、事故が起きて目張りしたというが、室内の放射線量が急上昇した。3月15日、60キロ離れた県庁に向け全員が撤収し始めた。当時の経産省幹部は「撤収の車両が足りてほっとした」と、後にこう話した。車で1〜2分の距離にある双葉病院にいた患者のことは「自衛隊が何とかしてくれると思った」という。

 「被曝(ひばく)対策の予算はあったが、保安院は見事なまでに無視した。事故は起きないという考えに凝り固まっていた」。「失敗学」の研究者で、政府事故調の委員長を務めた畑村洋太郎氏は、取材にそう答えた。そして「保存価値のあるものを展示するとしても、きれいに飾っておくだけで事故の教訓を学ばなければ全く意味がない」と強調した。

 東日本大震災の「震災遺構」をめぐっては、津波の被害を受けた庁舎などを残すかどうか、地元の住民どうしが長時間話し合った。一方、大熊町のセンターについては、地域住民らによる検討の場はなかった。

 22年春に避難指示が解除されるとき、跡地には復興住宅などが建っているという。かつて保安院に在籍したこともある経済産業省の中堅幹部は「すでに保安院も解体され、原子力規制委員会が新設されている。事故直後の失態を語り継ごうとする人は省内にはほとんど残っていない」と話す。

 東電が津波対策をしなかったのと同じように、政府はセンターの対策を怠った。その責任や、患者を置き去りに撤収した事実は、10年もたたずにかすれ始めている。

     ◇

 オフサイトセンター 原発や核燃料工場などの事故の際、関係省庁や自治体、事業者らが集まり、情報収集や住民の被曝防護策、避難指示区域の設定などを検討する前線基地。発電所(サイト)から離れた拠点のため「オフサイトセンター」と呼ばれる。正式名称は緊急事態応急対策拠点施設。国による設置が法律で義務づけられ、全国に23カ所ある。福島での事故後、ほかのセンターでは放射線防護対策や原発から5〜30キロ圏への移転が実施された。福島のセンターは南相馬市と楢葉町に移転された。
posted by ichi3 at 13:43| 東京 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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